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  • 執筆者の写真Masala Press

『ニュー・クラスメイト"Nil Battey Sannata"』@SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016 Vol.2

さて、すでに前の記事でご紹介していましたが、スクリーンでも観てまいりました「ニュー・クラスメイト(英語タイトル"The New Classmate" / インド版原題は "Nil Battey Sannata")」@SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016。


今日は、作品の中ではあまり語られていなかった社会的な背景などを少し掘り下げてみたいと思います。


まず、本作の主人公は貧しいことは貧しいですが、最下層ではありません。住まいも簡素ではあるもののテレビもありますし、スラムではなくてわりとよくある長屋です。


インドの貧富の分布はひじょうに幅広いのでひと言では表せませんしあまり品のいいいい方ではありませんが、しいていうなら「中の下」くらいでしょうか。大黒柱のお父さんがいれば、貧しいながらもきっともう少しなんとかなっているはずです。


インドに限らず、学のない女性が外で働くにはメイドや単純作業など学歴を問わない仕事が多くなるでしょう。インドでは主従の関係がはっきりしているので、雇い主のことは”Sir(サー)”や”Madame(マダム)/Ma’am(マム)”と呼ぶことが多いです。


メイドや下働きだけではなく、たとえば会社組織のような場でも部下が上司のことを”Sir”と呼んだりします。”Mr(ミスター)”や”Mrs(ミセス)”ではないのです。実際、かつていた組織では、私と同じ役職のインド人の同僚が、私たちの共通の上司(イギリス人)に”Yes, Sir”と答えるかたわらで、私や他の西洋人はその同じ上司をファースト・ネーム呼びすてで呼んでおり、大きな文化の違いを感じました。


インドには「命令する側として生まれてきた人」と「命令されて動く側として生まれてきた人」がおり、どんなに成績優秀で経済的な成功を納めたとしても、後者にとどまる者は使用人的立場のままです。


本作の主人公チャンダーは、お屋敷の元医師の婦人を「ディディ(お姉さん)」と呼ぶ以外は、かけ持ちしているどの職場でも「はい、ボス」「はい、社長」と言い続けます。彼女自身、命令されて働く側であることを痛感していて、だからこそ娘アップーには違う未来を築いてほしいと願っているのです。


それは単純な上昇志向や出世欲というよりは「対等な人間関係の中で敬意をもって接してもらえる人物になってもらいたい」という願いにほかなりません。


チャンダーの知識のなかにあるそのような人物像が極端に少なく、また医者やエンジニアは教育に莫大なお金がかかるという理由で、学費自体は低いらしい「地方行政長官への道」といういきなりとんでもなく高いハードルが設定されてしまいますが、彼女の願いの根本はそういうことだと思います。


Youtubeで本作のインドでの試写会の模様を見ると、観客は「中の上」以上の聡明で裕福そうな人物ばかり。このような社会派テーマの作品が庶民に大々的にウケることはおそらくないでしょうから、「努力すれば夢はかなう」というのが本作のメッセージだとすると、いったいインド国内ではどんな観客層をターゲットに制作された作品なのだろうという疑問が残ります。


試写会の観客の反応はこちら(セレブリティも何人か)


話は変わって私の古い友人の杉本昭男氏は、今をさかのぼること15年前の2001年にインド北部のバナーラスで会社を設立、日本の商社の手伝いやテレビ番組のコーディネーターなどをしながら数年後にはビルを購入し、地元のインド人向けのカフェを開店しました。


自薦他薦で運営スタッフを採用していくなか、人づてに頼まれて掃除や皿洗い担当として雇ったのは、20代半ばにして3人の子持ち、夫はヘロイン中毒で殺人を犯して服役中。自身は生活費を捻出するために血を売ったり、子どもたちは道端で物乞いをしたり。


よくぞここまでという崖っぷちも崖っぷちの女性でした(それでも下を見ればまだまだ下がいくらでもいるのがインドの闇の深さでもあります)。


きちんとした教育は受けていないので能力が高いわけではないけれど、働こうという意志はあり少しずつ前進もし、次々入れ替わるカフェのスタッフの中では古参なほうになっていきます(このあたりの話は杉本氏の著作「インドで暮らす、働く、結婚する」(ダイヤモンド社)に詳しい。おすすめです)。


昨夜、所用で来日中の杉本氏に久しぶりに会いました。そこでふとこの女性の話になり、長女が大学に入学したという近況を聞きました。15年前、物乞いをしていた子どもが、母親が職を得て学校に行けるようになったことで、ついに大学進学を果たしたのです。それを淡々と話す杉本氏は心から嬉しそう。


「ニュー・クラスメイト」に描かれているような、メイドの子が努力の末に出世の道をつかむといった話は、大多数の「貧しい」インドの人々には現実味のない夢物語なのだと思います。そしてインド国内でこの作品を観る観客の多くは、どちらかというとこの「貧しい」人々を使う側の「裕福な」人々が多いのだと思います。


意地悪ないい方をするならば、自分たちの世話をするメイドが勉強して出世などしては困る人々が主な観客層になるのではないかと思うのです。


それでもなお、このような作品が制作される背景には、心ある監督やスタッフやそれを支える人々の強い意志を感じますし、裕福な側であろう観客の賞賛の言葉や表情には、本当に社会をよくしたいという思い、あるいは自分やその上の世代が苦労してここまで成功したという歴史の重みを見てとることができます。


そしてなにより、夢物語では終わらない実例をババーンと示される、この鮮やかな飛躍に、インドという国の持つ計り知れない可能性を感じてわくわくしてしまうのです。できることなら私もいつか杉本氏のような思いをしてみたい。


「夢」などというふわふわキラキラした言葉にはこれっぽっちも縁がないであろう、その星の下に生まれ落ちたことが不運としかいいようがない幾多の人々の横をスッと通り過ぎてきてしまった者として。


なお、本映画祭での上映は歌と踊りのシーンがカットされた国際版でインド国内版は5分ほど長いということで、手元にあるインド国内版をざっと見直してみました。”Maths Mein Dabba Gul”という曲で多少踊りが入ってはいますが、物語の進行上は確かになくてもよいかなというようなシーンでした。蛇足ながら。

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